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もう二度と愛されなくていい ~偽りの愛が教えてくれたこと~
もう二度と愛されなくていい ~偽りの愛が教えてくれたこと~
Penulis: 佐薙真琴

第一章:砕かれた夢

Penulis: 佐薙真琴
last update Terakhir Diperbarui: 2025-12-02 18:09:19

 小暮夕夏は、Macbookの画面を見つめながら、自分の手が震えていることに気づいた。Adobe Illustratorで開いているのは、三日後に挙げる予定の結婚式のウェルカムボードのデザインだった。彼女が三週間かけて作り上げた、淡いピンクとアイボリーを基調とした優しいデザイン。中央には、彼女と慎一郎の名前が、彼女が選んだ繊細なセリフ体で配置されている。

 しかし今、その画面はぼやけて見えた。視界を涙が覆っていた。

 三十二歳の誕生日を迎えたばかりの夕夏は、この五年間、望月慎一郎というひとりの男性のために生きてきた。いや、正確には「生きてきた」ではなく「捧げてきた」と言うべきかもしれない。

 都内の中堅デザイン会社でグラフィックデザイナーとして働いていた夕夏は、クライアントとの打ち合わせで慎一郎と出会った。当時、IT関連のスタートアップを立ち上げたばかりの慎一郎は、自社のブランディングを依頼してきた。三十四歳で、野心的で、夢を語る目が輝いていた。

「君のデザインには温かみがある。でも同時に、強さもある。まさに僕が求めていたものなんだ」

 最初の打ち合わせで、慎一郎はそう言った。夕夏の心は、その言葉で完全に捕らえられた。

 それから五年。夕夏は慎一郎のビジネスを支えるため、週末も惜しまず彼のプロジェクトに協力した。会社の仕事が終われば、夜遅くまで慎一郎の資料作成を手伝った。彼が資金繰りに困れば、自分の貯金を躊躇なく差し出した。

 そして今、結婚式の三日前。

 夕夏は、スマートフォンの画面に映る一枚の写真を見つめていた。それは、彼女の親友――桜井由香里が送ってきたものだった。

 写真には、慎一郎と由香里がホテルのラウンジで、親密に寄り添っている姿が写っていた。しかし、写真以上に夕夏を打ちのめしたのは、添えられたメッセージだった。

「夕夏、ごめん。どうしても言わなきゃいけないと思った。私、妊娠してるの。慎一郎さんの子供を」

 夕夏の世界が、音を立てて崩れ落ちた。

 由香里は、夕夏が大学時代から十年以上付き合ってきた親友だった。就職活動も一緒に乗り越え、恋愛の相談も互いにしてきた。夕夏が慎一郎と付き合い始めた時も、一番に喜んでくれたのは由香里だった。

 いや、違う。あれは喜びではなく、獲物を見つけた時の笑みだったのだろうか。

 夕夏は、震える指でスマートフォンを操作し、慎一郎に電話をかけた。三回目のコールで、彼が出た。

「もしもし、夕夏? どうしたの、こんな夜中に」

 声は、いつもと変わらず優しかった。それがかえって夕夏の心を抉った。

「慎一郎さん、今すぐ会えない?」

「え? 今? 明日、大事なプレゼンがあるから、資料の準備してるんだけど――」

「今すぐ」

 夕夏の声は、自分でも驚くほど冷たかった。

 三十分後、夕夏のマンションに現れた慎一郎は、疲れた顔をしていた。スーツは皺だらけで、髪も乱れている。いつもなら夕夏が心配するところだったが、今は何も感じなかった。

「で、何の話?」

 慎一郎は、リビングのソファに座りながら、少しイライラした様子で聞いた。

 夕夏は、スマートフォンの画面を彼に見せた。

 慎一郎の顔色が、みるみる変わった。驚き、そして――逃れられないと悟った時の、諦めの表情。

「これ、どういうこと?」

 夕夏の声は震えていた。怒りではなく、まだ希望を持っていた。彼が否定してくれることを、何かの間違いだと言ってくれることを願っていた。

 しかし慎一郎は、深いため息をついて、顔を手で覆った。

「ごめん」

 その一言で、夕夏の最後の希望は消えた。

「いつから?」

「半年くらい前から」

 半年。夕夏が、ウェディングドレスを選び、式場の手配をし、新居の家具を一緒に見て回っていた、その時から。

「なんで? なんで由香里なの?」

「わからない。でも、彼女といると楽なんだ。君とは違って、何も求めてこない。ただ僕を受け入れてくれる」

 何も求めてこない? 夕夏は、自分の耳を疑った。

「私、あなたのために何でもしてきたのに。あなたの会社のために、自分の時間も、お金も、全部――」

「それが重いんだよ」

 慎一郎の言葉は、ナイフのように夕夏の胸に突き刺さった。

「君は優秀だし、何でもできる。でも、それが僕にはプレッシャーなんだ。君の期待に応えなきゃいけない、君を幸せにしなきゃいけないって、ずっと思ってた。でも由香里は違う。僕がどんな僕でも、ただ笑ってくれる」

「じゃあ、結婚式は? 新居は? 私たちの五年間は、全部嘘だったの?」

「嘘じゃない。でも、君との結婚は、義務みたいに感じてたんだ。君が望むから、断れなかった」

 夕夏は、立ち上がった。部屋が揺れているように感じた。

「出て行って」

「夕夏――」

「今すぐ、出て行って!」

 夕夏の叫び声に、慎一郎は驚いたように立ち上がった。彼は何か言いかけたが、夕夏の表情を見て、言葉を飲み込んだ。

「本当にごめん。でも、これが僕の選択なんだ」

 ドアが閉まる音が、夕夏のマンションに響いた。

 それから、夕夏は床に崩れ落ちた。涙が止まらなかった。五年間の思い出が、走馬灯のように頭の中を駆け巡った。

 初めてのデート。彼の会社のロゴを徹夜で仕上げた夜。彼が資金調達に成功した時の、喜びの抱擁。一緒に見た夕陽。プロポーズの言葉。

 すべてが、嘘だったのだろうか。

 いや、違う。嘘だったのは、彼の愛ではなく、夕夏が見ていた幻想だった。彼女は、慎一郎を愛していたのではなく、「慎一郎に必要とされる自分」を愛していたのかもしれない。

 翌朝、夕夏は会社を休んだ。人生で初めての「心が折れたための休暇」だった。

 スマートフォンには、由香里からの着信が十五件、メッセージが三十通以上来ていた。すべて無視した。

 正午過ぎ、インターホンが鳴った。来客を示すモニターには、由香里の顔が映っていた。夕夏は、ドアを開けなかった。

「夕夏、いるのわかってる。お願い、話させて」

 由香里の声は、ドア越しにも聞こえた。

 しかし夕夏は、ソファに座ったまま、動かなかった。やがて由香里の声は遠ざかり、静寂が戻った。

 夕夏は、リビングの壁に飾ってあった写真立てを見た。そこには、彼女と慎一郎と由香里の三人が写っていた。去年の夏、箱根旅行に行った時の写真。三人とも笑顔だった。

 夕夏は、その写真立てを手に取り、ゴミ箱に投げ入れた。ガラスが割れる音が響いた。

 それから、彼女は自分のMacbookを開いた。結婚式のウェルカムボードのファイルを開き、すべてを選択し、削除した。

 画面が真っ白になった。

 夕夏は、その白い画面を見つめながら、自分の人生もまた、真っ白になったのだと感じた。三十二年間生きてきて、積み上げてきたもの。信じてきたもの。すべてが、消えた。

 しかし、白いキャンバスには、新しい絵を描くことができる。

 その時はまだ、夕夏にはそう思える余裕はなかった。ただ、部屋の片隅で、膝を抱えて座っていた。

 窓の外では、東京の街が、いつもと変わらず動いていた。人々は笑い、働き、恋をし、生きている。夕夏だけが、時間の流れから取り残されたように感じた。

 夜になり、夕夏はようやく立ち上がった。キッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。中には、慎一郎の好きなビールと、彼のために作ろうと思っていた食材が入っていた。

 夕夏は、それらをすべてゴミ袋に入れた。そして、部屋中にある慎一郎の痕跡――彼が置いていった服、本、小物――をすべて集めた。

 大きなゴミ袋が三つになった。

 夕夏は、それらをマンションのゴミ捨て場に運んだ。夜風が冷たかった。十月の終わり、もうすぐ冬が来る。

 部屋に戻ると、そこには何もなくなっていた。慎一郎の存在が、消えていた。

 しかし、それでも夕夏の心は軽くならなかった。なぜなら、彼女自身もまた、消えてしまったように感じたから。

 小暮夕夏という人間は、「望月慎一郎の恋人」という役割の中にしか存在していなかった。その役割が消えた今、彼女は何者なのか。

 その問いに、夕夏はまだ答えることができなかった。

 ただ、ベッドに横たわり、天井を見つめていた。目は乾いていた。もう涙も出なかった。

 そして、夕夏は決めた。

 明日から、会社には行かない。結婚式は中止にする。そして――自分が何者なのかを、もう一度、ゼロから見つけ直す。

 それが、小暮夕夏の再生の始まりだった。

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